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植物の病気の話

第11話 私の原風景-地下足袋で畑を歩く-

緒戦の敗退

 昭和44年3月のことである。 「黒蝕米(こくしょくまい)というのを知っているかね」と面接の試験官が尋ねた。「知りません」と私。「ま、試験場に入ってからしっかり取り組んでもらうか」。こんなやりとりの特別選考試験ののち、4月末に旭川市永山町の上川農試に着任した。
 当時、黒蝕米は細菌(バクテリア)が起こす難病とされ、この原因究明と対策のため新人が採用されたのだった。過去の研究報告では、イネ籾の乳熟期が感染時期とされていた。このため、この時期の籾に針を刺して細菌を接種する仕事を昭和47年まで続ける。しかし病徴は再現されず、成果は皆無だった。
 ところがその年、同じ研究室の奥山研究員によって、新発見がもたらされる。黒蝕米はアカヒゲホソミドリメクラガメによる虫害であることが明らかにされたのである。まさに、画期的な成果だった。
 一方、新人研究員の方は涙をのむ。

▲黒蝕米;黒く変色しているのは、カメムシが口針を刺すことで生じた斑紋

乾腐病との出会い

 昭和48年夏、富良野地方でタマネギ乾腐病が激発。今年−2012年−のように暑い夏だった。北海道新聞に大被害の記事が載ったが、鬱屈した気持ちを抱えていた私には他人事だった。この秋、上川農試に、富良野市や同市の玉葱振興会から乾腐病対策に取り組んで欲しいとの要請書が提出される。11月初旬に富良野の畑で拾い集めた腐ったタマネギが乾腐病との出会いだった。
 水稲育種の牙城である上川農試でタマネギの研究に着手できたのは、当時の島崎佳郎場長の英断だった。研究の主戦場は富良野市上五区の農家圃場で、約50アールの畑を富良野農協が確保してくれた。営農指導部の方々の全面的なバックアップを得た。なかでも生産課長の菅原之雄さんの職人気質の風貌が忘れがたい。タマネギについて知識が全くなかった私に、種まきから生育調査に至るまで、手ほどきをしてくれたのである。乾腐病の仕事が始まった昭和49年の春から秋まで84日間富良野に滞在したが、その大半を自宅に泊めていただいた。

乾腐病;当時、農家の人たちは「尻腐れ」とよんでいた。絶妙な命名

地下足袋で畑を歩く

 二人ともお酒が好きで、タマネギから学生運動までと、話は尽きなかった。夜12時近くまで話し込むことがあっても、朝の4時すぎには階段の下から「児玉先生出かけますよ」と声がかかった。
 そして、実験圃場や農家の病害診断に歩き廻った。二人の約束で、出かけるときはいつも地下足袋だった。農家の人と本音で話すには、農家の人と同じように体を動かすことも大事だと何度も聞かされた。
 タマネギだけでなく、水稲、スイカ、メロン、アズキなどさまざまの作物の病気に出会えた。数年分の仕事を、一緒に畑を歩き廻ることで短時間に教え込まれたことになる。その後の私の研究のための得難い経験だった。

▲「富良野玉葱発祥の地」の石碑前で。右・菅原さん、左・天野高久さん

 (当時上川農試研究員、後に京都大学教授、中央・筆者)

残された宿題

 乾腐病に取り組んで間もなく、タマネギの根が赤くなる病害が各地で発生しているのに気づく。菅原さんとの連名で「紅色根腐病」と命名し、福岡で開催された日本植物病理学会で報告した。アメリカで発見された病気で、日本では初発見だった。それから30年ほど経た2005年あたりから、この病気が注目されるようになった。
 紅色根腐病によって球の肥大が抑制されるのではないか、というのである。数年前から若い仲間たちとその仕事を始めた。少しずつ展望の見え始めたこの仕事の結果は、墓前にしか報告できない。しかし、菅原さんを彷彿とさせる人が若い研究仲間にはいて、私を励ましてくれている。

次回はタマネギの紅色根腐病の話です。

▲紅色根腐病;右が健全株、左が病株

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